The world he lived in





氷が水門を壊してすべてが水に流れ、たった一人になったときに、ようやく海が死んだという事実を理解した。





目を閉じていても暗闇の中にその存在を主張する太陽の眩しさに目を覚ました。微風が頬を撫で、波の音が耳に心地よく流れ込んでいた。過去の罪悪や哀傷を洗い流してくれるかのようなそれは、優しい慰めの声だった。
私は浜辺に流れ着いていた。上体を起こし、辺りを見渡したが、誰もいなかった。氷、海、霙、それに美雨も。私はたった一人だった。
風が吹いていたが、南風らしく、気持ちのよい天気だった。私は思い切り両手を空に突き上げ、伸びをすると、再び浜辺に寝転がった。ブルーのインクを薄く溶かしたような、すっきりとした水色の空が広がっている。照りつける日光を片手で遮り、私は空を見つめた。
美雨は、私の目の色を空の色だと言っていた。そうなのだろうか。考えてみるも、きっとそれは美雨にしかわからないだろう。美雨は無事だろうか。一座の連中も、それから捕らえられていた男も。それから……。

目の前で大水に飲まれていった氷。迷うことなく彼について行った霙。それに、私をかばって氷の銃弾に撃たれた海。皆、死んでしまった。

不思議と悲しみだとか、寂しさだとかは感じなかった。ただ、昔のちょっとした事件を思い出した。海が死んだ今、私はなぜだかその事件だけが心残りで、今になって後悔していた。


氷に拾われてから、数か月たったくらいの頃、氷と海と三人で東京の街を散策していた。城に籠る日々が続いていたので、外に出たいと駄々をこねた海に氷が根負けしたのだった。
氷がついでだから、と必要物資の調達をしている間、私と海は二人きりだった。海は氷と一緒について行きたがったが、子供がうろうろするような店ではなかったので(氷は武器の調達に行っていたのだと思う、確か)、私と海は外で待たされた。人通りは少なかったが、入り組んだ路地裏だったので、私は目の見えない海にいつも以上に気を配り、繋いだ手を離さないようにしていた。初めのうちは大人しくしていた海だったが、氷がなかなか戻ってこず、待てなくなって、「氷のところに行こう」と言いだした。私たちが言っても邪魔になるだけだとは分かっていたし、氷にも外で待っていろと言いつけられていたので、そんな簡単な言いつけも守れぬような聞き分けのない子だと思われたくないという思いもあり、私は海に叱咤した。そんなに強い口調で言ったつもりはなかったのだが、数秒後、海はぐずりだした。海はぐずれば何でも思い通りになると思っている節がある。今回の東京散策だって、そうやって氷を言い負かしたのだ。
だが、しまいには涙を流し、「氷はどこ、氷のとこ行く」とそればかり言うものだから、私も少しばかり頭にきた。頭に来たのもあるが、ちょっとしたいたずら心もあって、私はその時初めて、海の手を意図的に離した。
自由になった海はおどおどした様子で私の手を探ろうとしたが、私は彼につかまらないよう身を引いたために海の手は空をつかむことになった。中途半端に投げ出した手を不安げに握り、少し迷った後、海は氷の元へ行こうと店に入った。直後に何かがガラガラと崩れる音がして、彼の泣き叫ぶ声が聞こえた。


『海!』


私も慌てて海の後を追って店に入ったが、用事を済ませた氷が泣き叫ぶ海をなだめているところだった。どうやら入り口近くに積み上げられていたアルミ製の容器にぶつかって、ぶちまけてしまったらしい。
氷が咎めるような瞳で私の方を見た。


『空、外で待っているように言っただろう。なぜ海から目を離した。この子が一人では歩けないのは、わかっていることだろう?』

『違う、違うよ。氷。海が勝手にいなくなったんだ』

『手を繋いでいるように言っただろう』

『海が勝手に離したんだ』


私は必死で弁解していた。思わず嘘をついていた。


『海、そうなのか?』


氷の問いかけに、海は何も答えず、しゃくり上げていた。私は海が本当のことを言わないように、と願っていた。海がしゃくり上げるのと同じくらい、私の心臓も激しく鼓動を打っていた。


『海、お前が手を離したのか?』


再び氷が問いかけた時、海は涙をごしごしと拭いながら頷いた。





事件と言うほどでもないが、私が海の手を離したのは後にも先にもこの時限りだった。この時以来、海は常に私か氷に守られていたし、海がこの事件を口にすることもなかった(そもそも彼にとってはたいしたことではなかったかもしれない。あの時彼は氷のそばに行こうと夢中だったし、きっと混乱していた)。私の中でも段々とこの記憶は薄まり、今に至るまで思い出すことも一度もなかった。その記憶は完全に忘却されていた。

なぜ今この時になって、こんな昔のことを思い出したのかわからない。だが、あの時の私以上に、今、私はこの事件を後悔していた。

氷に私の主張が事実かどうか問いかけられて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で頷いた海の顔が、今さっきの出来事のようにはっきり思い出された。
わがままで、甘えたな弟がついた嘘。私を守るためについた嘘だった。


「海……」


海を守ってきたつもりだった。彼の目となり、彼を導き、支えてきたつもりだった。だが本当に守られていたのは、私の方ではなかったか。
彼の目は、私以上に多くのものを見てきていたのではなかったか。

目尻から涙が落ちて、耳に染みた。海の記憶とともに、私の中で生涯残るであろう、後悔の涙だった。